ワイハーから帰ってきたよっしーどえす。
物事にはいつもプロセスがあるとか、過程があるはずだ、と思いこんでいると、
事あるごとに、『なんで?』『どうして?』という疑問を持つことになる。
そして何かをしたり、やったりすることにも、必ず理由が必要だと思い込む。
何事にもプロセスがあって、理由があって、それを知らなければならない、という思い込み。
本当にそれ、必要なのかな?
たとえば、子供が抱っこしてほしいと言う。
理由がなければならないと思い込んでいると、その親は
『なんで抱っこしてほしいの?』と、聞く。
これね、子供に対しては本当に愚問。
理由なんてない、ただ親に抱っこしてほしいと、思っただけ。
ただただそう思っただけ。
どっかに行きたい、あれが欲しい、というのも理由はない。
ただ行きたいだけで、ただ欲しいだけだから。
大人同士でも、『なぜあの人はああなのかしら?』と理由をいくら探しても、
その理由は未来永劫見つからない。
だって、あの人は『そう出来ている』から。
『この間と言っていることが違う!なんで!?』
と憤っても、人間っていう生き物は、意見がコロコロかわる生き物だから、
としか答えようがない。
外の世界に対する『なんで?』『どうして?』は時に自分を苦しめる。
だって考えたってわからないんだもの。
わからないことを一生懸命わかろうとして、考えてもそれはわからない。
子供が抱っこをせがむ時、ただその子は自分に抱っこをしてほしいだけだから。
そこに理由なんてない、プロセスもない。
結婚した理由が『ただなんとなく』でも構わないのだよ。
今の仕事の選択を『なんとなく良いかなーと思って』でも構わない。
むしろ、何の理由もいらない。
だって、すでにそれは選択されている事柄だから。
一度、自分の中の『なんで?』『どうして?』を止めてみると良いと思う。
あぁただただ、それはそうなんだな。
と受け入れる練習をしてみると良いと思う。
そうすれば思考はもっとシンプルになって、楽になると思うから。