そこに愛があるのかないのか、
っていう話題って、あちらこちらで良く見かける。
それは愛じゃないだろうとか、
そこには愛がありますよね、とか。
愛がある、ない、が何かの判断基準になっているには
間違いないみたいだけど。
そもそも、愛がある、愛がない、と決めるのは誰?
○○さんって愛がないよねー
○○さんって愛があるよねー
って、勝手に判断しているのは誰?
○○は愛です。
って聞いた人たちの半分 は
そうそう!それは愛よね!
えー、そんなの全然愛じゃないよ!
ってなる。
同じ物を見ても、その感じ方受け取り方は千差万別。
同じ人を見て、愛がある愛がない、という極端な評価がくだされる。
いつもそう。
愛じゃなくなって何だってそうだ。
何かの料理を美味しいと思う人もいれば、
クソまずい、と思う人もいる。
100%の共通認識など生まれるはずもない。
だって私たちは自分の主観の世界にすんでいるから。
だから、愛があるとかない、とかも
自分の主観でそれは支配されている。
もし、自分が嫌いな相手だったら、
それが愛だろうがなんだろうが、
嫌いなんだから、愛がない、と感じるに決まってる。
愛がある、愛がないって、いう判断は
結局は自分の相手への好き嫌い に過ぎなかったりする。
自分の判断が正しいなんてことはない、
それは感情と主観に左右されるから。
はっきり言おう。
自分の判断が正しいと決まっている
なんてことが、あり得るはずがない。
あの人って愛がないよねっていう批判自体が意味をなさない。
自分だけが正しい、と思い込んだ行為行動、発言も含めて
なんて醜いのだろうと、心底思う。
自分の中の正しさなんて、
全部自分の気のせいだろ。
愛がないとかいう批判に、愛はあるんですかね?
相手の受け取り方で、愛があるとかないとか、
勝手に判断されるんだから、好きにやればいいと思うよ。
どんなものでも、そうやって2分されて行くんだし。
そんな矛盾した世界に、私たちは住んでいるだよ。